2016年 05月 21日
米津 福祐展
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米津 福祐展


米津 福祐展


                 夢の庭画廊
                   上田市前山264-3
                   ℡・FAX 0268(38)3236
                   Eメール yumenoniwa@po3.ueda.ne.jp
 URL:  http//yumenoniwa.exblog.jp

会期  2016年5月20日(金)~6月19日(日)
     AM10:00~PM6:00(最終日3時迄)
場所  夢の庭画廊 上田市(水・木休廊)
     上田市前山264-3(℡0268-38-3236)
      上田駅より別所線塩田町駅下車徒歩30分)
        タクシー5分(参考・塩田観光タクシー0268-38-3151)
 

■制作背景

湧きいずる泉の水の盛りあがり
        くづるとすれやなほ盛りあがる    窪田 空穂
 高校卒業と同時に上野の料理屋に見習いに出かけた。高校時代、考えもしな
 かった事態になった。
その後帰郷。明治大正祖父母の時代からの家業ささやを手伝いながら絵を描き始めた。絵を描く友人知人が居た訳でも美術の指導者がいたからでもない。ただ絵を描くことでしか、現実の自分を矜持することが出来ない気がした。と同時に「描くこと」がなによりも好きだったからだ。
 昭和20年、戦争が終わった。衣食住すべて不足の悲惨な時代が始まった。だが戦争の空襲警報、出征、配給など重苦しい日常から目隠しが外されて明るい光が射し込んだように、ホッとした安堵感は、小学生の私にもしっかりと伝わった。なんとも言えない開放感が市内にあふれた。それは音楽会やコーラスグループの会、ダンスパーティー、素人演劇、美術展、軽音楽バンドなどなど、町ごとの青年会や町内会の催し物が春の芽吹きのように一斉にはじまった。それらのことで証明される。昭和20年代、テレビが普及する前のことだ。今夜は常田公会堂、明日は伊勢宮の社務所で、次は鷹匠町公会堂と、街の青年団、町内会の若者達が演ずる音楽会や芝居が実に楽しかった。
 私の芸能の『楽しい、愉快』はこの素人が演ずる音楽や演劇が原点で、心に深く擦り込まれた。

     昭和史のまん中ほどのある血糊   小田島花浪
戦争から復員してやっと絵が描ける、喜びあふれた画家の卵、美術教師、絵が趣味の愛好者などが、みな真剣に真面目に制作している様子が、私に見えてきたのは20歳を過ぎた頃だった。特に岡鹿之助先生を上田へ講師として迎えた春陽会出品者による鹿苑会の熱心な作品研究会の様子は「信濃デッサン館ニュース(平成16年4月1日春季号)『五十年後の3月』に詳しく書いていたのでお読み頂きたい。
 その昭和30年頃上田高校美術教師林幸四郎先生を中心に私のような勤労青年や教師など十余名が集まり「金曜会洋画研究所」が同先生のアトリエで始まった。人物デッサンと作品講評の会だ。新卒の美術教師や若い男女の美術熱烈愛好者は、作品講評となると遠慮なく強烈な批評が飛び交い火の出るような激しい会となった。美術史も芸術論も技法も何も知らない私は作品を持参する度に皆から集中砲火を浴びた。毎回一生懸命に制作し持参する度に激烈な批評で、落ち込むばかりであった。が、なぜか毎週皆が集まるその金曜日が待ちどおしくなり、その為に毎日作品作りに励んだ。悔しい思いの連続だったけれど批評で欠点を指摘されるとその通りだったので、非常に啓発される会となり、また真剣に絵と向き合ういい友達が出来た。
 林先生や先輩に勧められるままに長野県展、日本水彩画会に出品をはじめた。幸いなことに、両展でトップ賞はじめ沢山の賞を頂いた。
 折から地元東信美術会主催裸婦講習会に春陽会の藤井令太郎先生(武蔵野美大教授)が、講師としてこられた。講習会の先生の話や作品批評に大変なショックを受けた。
 地元の金曜会の仲間も同様にショックを受け、水彩で表現しきれないものは油絵で!と競うようにF100号以上の大作の制作が始まった。
 上田には山本鼎、倉田白羊両先生が居住されたことから、上田周辺は無論のこと長野県内には洋画(油絵)を描く人はほとんど春陽会に出品していた。私の絵の友達も知人もみな春陽会出品者だった。
 好きな画家が沢山所属するのは二紀会だったが、知人や友人はもちろん先生、先輩は誰も居なかった。
 団体展出品に本腰を入れるなら、関係者が誰もいない会に出品しよう、というのが県展や日水展などに十年余出品して得た私の結論だった。

      春風や闘志いだきて丘に立つ     高浜虚子
 これが転機になった。
 二紀会展をめざして夢中になって大作を描いた。1年間に100号以上の絵を十余枚という制作が何年も続いた。日本水彩画会を退会する時、日展審査委員の某先生から『誰も知人や関係者がいない会に出品するのは無謀です。大変な苦労をしますよ。』の言葉どうり、出品して4、5年は折角、上京し展覧会に行っても懇親会に出席しても面識が無いので、一言も喋ることもなく上田へ帰ってくるような年が続いた。「類は友を呼ぶ」というが、私と同じようにいつも懇親会や展覧会でポツンと一人で佇んでいる男と話が通じて、お互い喋るようになった。現在二紀会常務理事、親友立見栄男氏との出会いだった。
 出品から半世紀余の月日が流れた。大勢の親しい友が出来、すばらしい沢山の先生や先輩と知り合うことが出来た。自分の作品を通じて知り合い、交諠を厚く出来たことは、作品への思考を深め、視野を広げた。もっと大切なことは出品を契機に気持ちの愉快も創造(?)したことだ。
 夢の庭画廊主小澤さんから作品のコンセプトを、言われた時、自分が今日まで絵を描き続けてきた底の底の気持ちを考えた。
 二紀会という団体展をめざして夢中で描いている内に『描く』ことが自己開放とでもいうのか、絵の上ではどんなことも自由で、開放感、充実感に満たされたことである。
 だがどんなに満足、充実、開放に自分が浸り、制作しようとも『いい絵』が出来ることとは全く関係がない。
 気がつけば79歳だ。
 自他共に満足するような作品は出来ないけれど、創作する喜びを享受しながらの半世紀に及ぶ制作年月は、どんなに大文字で『有り難い』と書こうとも感謝しつくせない。
 今日もライフワークの雷電為右衛門を描きながらカタチの簡略、色彩の単純化と同時に、形態から発する「愉快」を画面に定着させるのに夢中になっている。

        力竭して山越し夢露か霜か      石田波卿
 20余年間、力士像(雷電)を描いている。ギリシャ、ローマ彫刻や絵画にみる西欧人と違った肉体の美しいカタチが鍛えられた日本人の体格にはある、と感じたからだ。所謂黄金分割、律、八頭身等の数理では描き尽くせない「大和」のカタチだ。それを表現したいと思った。
 数学、効率が優先する現代社会。3・11大震災を経て人間らしい「絆」は数字だけでは証明することは難しい。
 間尺に合わない美の世界を追い続けている。

■画歴

1937  上田市に生まれる

1963  (社)日本水彩画会・日本水彩画会賞受賞
1966  長野県展・県知事賞受賞
1967  文部省主催・全国県展選抜展出品
1971  第25回二紀会同人賞受賞
      日本水彩画会・文部大臣賞
1972  長野県展・県知事賞
1973  文部省主催・全国県展選抜展出品
1982  34回二紀会会員展・会員賞
1983  第37回二紀展・会員賞
      東京セントラル美術館・油絵大賞展
1987  1990 二紀会・会員賞
1993  二紀会委員推挙
2003  第57回二紀会展・鍋井賞
2010  第64回二紀会展・栗原賞
2011  第65回二紀会展・二紀会参与
2003年~2007年樗の会展(ギャラリームサシ)他個グループ展多数
     現在 二紀会委員(参与)

■ 作品
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by yumenoniwa | 2016-05-21 08:18 | 夢の庭画廊


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